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日本の美と京焼

文・仲森 智博

今からざっと700年前、官人であり随筆家でもあった吉田兼好は、徒然草の中でこのように書いている。

「薄布で装飾した書物の表紙は、すぐに痛んでしまうので困る」とある人が言った。著名な歌人である頓阿はそれに「薄絹は上下が擦り切れたところに味があり、螺鈿の軸は飾りの貝がいくつかとれているくらいの方が、深みがあって美しいのだ」と答えた。これは見事な指摘である。(中略)何でも、完全な形のものには味がない。やり残したこと、そのままになっているところがあった方が面白いし、それでこそ愛着が湧くというものだ。

完璧なフォルム、精巧な装飾、華やかな色彩、そして豪華さ。こうしたものに美を感じる価値観は、世界に共通したものであろう。もちろん、日本にもある。その一方で、その正反対ともいえる価値観が、日本にはある。「侘び寂び」と呼ばれるものだ。その二つが渾然一体となっているところこそが「日本の美」の他にみられない特質であり、深みであり、分かりにくさでもある。

あらゆるものに投影されるその価値観は、芸術や嗜好品といった分野で、極めて濃厚にその影響を見出すことができる。例えば、陶磁器である。日本人の好みということで、特徴的にいえることは、陶器を愛するということだ。優美な磁器も多数生産されており、それを愛用もしている。だが、それ以上に陶器を愛してやまないのが日本人といえるだろう。

ここで、陶器と磁器について、簡単に説明しておきたい。歴史的にいえば、「焼き物」の発祥は陶器にある。最初に出現したのは、土を整形して焼いただけの土器、これにガラス質の釉薬をかけ、防水力と耐久力を増したものが陶器である。製法にもよるが、通常は釉薬に細かなヒビ(貫入)が入っており、土の部分には水分が浸透する。このため使用による経時変化が生まれる。

陶器の例 京唐津
陶器の例 京唐津

その後に登場したのが磁器である。白く緻密で、ほとんど吸水性はない。貫入もほとんどなく、優れた耐久性を誇り、割れたり擦れてキズがついたりということを除けば、経時変化はほとんど生じない。11世紀ごろ中国で発明されたと言われ、日本では17世紀初頭に製法が確立され、主要な輸出品目となった。主要な輸出先であった欧州でも国産化が試みられ、17世紀初頭には、マイセンなどが製造に成功している。

磁器の例 祥瑞
磁器の例 祥瑞

こうした歴史を反映してか、日本以外の地域では、最も原始的で低級な焼き物が土器で、植木鉢やレンガなどの建材といった限定された分野で利用される。その次に、比較的安価で庶民向けのものが陶器、高級食器などは基本的には磁器という序列ができあがっている。ところが日本の場合、そうした「優劣」の価値観はまったくない。土器にも陶器にも磁器にも、消耗品もあれば超高級品もあり、高級料亭などでも、そのすべてが利用されるのである。他の地域との相対比較でいえば、土器や陶器の地位が極めて高い、ということがいえるだろう。

その傾向が顕著に現れるのが、「侘び寂び」という美意識を体現する茶道の世界であろう。例えば茶碗についていえば、「一楽ニ萩三唐津」という言葉がある。国産のものとしては、楽焼、萩焼、唐津焼が茶碗として最も適しているということを指す言葉だが、これらはすべて陶器である。このほか、茶道で珍重されるものに「高麗茶碗」といわれるものがある。16~17世紀に朝鮮半島で生産された茶碗で、やはり陶器だ。

茶道
茶道

こうした陶器が尊ばれる理由の一つが、徒然草にも書かれていた、「使われ、やつれてきたところに美を見出す」という価値観に叶う要素を備えているということであろう。陶器の茶碗は、使えば茶が染み込み変色していく。ピンホールやヒビの部分にシミが入ったりもする。それを日本人は劣化とはとらえない。使い込まれた茶碗を「よく育っている」と褒め、シミを景色と呼び、それがあることを喜ぶ。

磁器より陶器の方が素朴で、味わい深いという価値観もある。茶道では、一般的には欠点とされる、製造時にできた歪みやムラ、変色なども、ときとして鑑賞の対象にする。完璧なフォルムより、不完全で、ちょっとおどけたような姿を好み、均一であるより不均一な、自然さを感じさせるものに愛着を感じるのである。

ごく身近な例で言えば、新品よりも、洗い込んだジーンズをよしとする価値観に似ていなくもない。現代では、工業的に洗いたての風合いを出し、ときには作為的にヤブレなどもつくった「高級ジーンズ」が作られている。わざわざ古びた風合いを加えるための処理を施すわけだから、それだけ高価になるはずなのだが、あえてそれを求めようとする人が多くいる。

こうした美意識は、豊かさの先に存在するものだと言ってもいいだろう。人は経済的に豊かになる初期過程では、いかにも高価なもの、いかにも豪華絢爛なものにまずは目を奪われるらしい。日本ではそれを「成金趣味」と蔑む。しかし、こうしたものに接し、美意識がさらに磨かれてくると、「侘び寂び」を好む境地に至る。そうした人は「趣味がいい」と言われ、一定の敬意を受けるようになるのである。

侘び寂びは、美醜に加え、ある種の精神性を備えたもの、と言い換えることもできる。精神性とは、とても分かりにくい言葉である。哲学、美学、宗教などの要素を包括した概念だからだ。ただ、あえて言えば、その中心にあるのは禅といえるだろう。茶道のバックボーンもつきつめれば禅であり、侘び寂びという美意識もまた禅に通じるものだといえる。

ただ、精神性を禅と言い換えたところで、分かりやすくなるものではない。禅というもの自体が、宗教と分類されながらも実態は哲学とも思想ともいえるもので、その中身は矛盾に満ちており、とても言葉でそれを表現できるものではないからだ。

すべての執着を消し去ることで悟りに近づけと禅は説く。けれど、執着を消し去ろうとすること自体が執着だとも言う。ただ座れ(座禅をしろ)という。その一方で、座って悟りが開けるのであれば、蛙はみな仏(悟った人)になっている、とも揶揄するのである。

あえて詭弁を弄するならば、無限大はゼロに最も遠いはずなのに、実はゼロに最も近い、ということなのかもしれない。禅では、大賢は大愚に似ているという。それを美意識というものに当てはめてみれば、このようなことが言えるかもしれない。最大級の装飾は無装飾であり、巧を突き詰めれば拙に至る。こうした、巧拙という呪縛から解き放たれた自由な精神に強くアピールするものこそが、本物の美というものなのであると。

こうした価値観は、ある時代のある時期に限って成立していたものではない。だから、何百年も前に「これぞ極上」と評価された茶碗は、時間軸を超えて今でも極上のものとされる。そう決まっているからではなく、「これこそが無上のものである」と数百年も前の人は思い、現代人も「心底そうだ」と思う。それはたとえば、喜左衛門井戸であり、長次郎の茶碗である。だがそれらは、一般的にいう「美しいもの」「洗練されたもの」とはいえず、むしろその対極にある存在だ。

こうした美意識は、茶道の世界に濃く漂っているが、茶道だけに閉ざされたものではない。例えば、「現代の数寄者」として没後も絶大な支持を集める白洲正子が生前に愛用した酒器の一つに粉引の徳利がある。それが売りに出されれば、数千万円の値段がつくといわれた逸品である。だがそれは、茶道で珍重される粉引の茶碗と同じく、長年の使用によるシミが全体に現れたもので、豪華さもなければ端正さもない。綺麗ともいえない。それでも、無類の味わいを感じさせるものである。もし、この徳利をもう少し「綺麗にしよう」と、漂白剤にても漬けたらなら、長年の使用によってできた雨漏り様のシミは、すっかりとれて、焼きあがったときのような、真っ白な肌が蘇るかもしれない。けれどもそうなってしまえば、味わいは失せ、その価格は10分の1以下になってしまうだろう。

もちろん、「汚れ」ともとれるシミが価値のすべてというわけではない。端整でなくても少しとぼけたような、柔らかく暖かな形状、粗野ともとれそうな作りなど、すべての上に「長年、正しく使われてきたことによって現れる経時変化」があって、作品の総合的な価値が高められるのである。それらの要素をバラバラにしたとき、「どうなっているのがよい」といった正解はない。色、かたち、表情など、さまざまな要素が響き合い、調和して味わいを醸しだすのである。

それは、古くは偶然の産物であった。茶道に「見立て」という言葉がある。本来、お茶道具として作られたものではないものを茶道具として「見立てて」使うという意味である。利休が賞賛し盛んに用いた高麗茶碗(15~16世紀に朝鮮半島で製作された茶碗)も、そもそもはお茶道具ではない。おそらくは、飯や汁を入れた食器だったのであろう。日本の陶器もある。有名なのは、農家で種の貯蔵用に使われていた備前焼などの壷に蓋をつけ、水指に用いた例であろうか。

ここで注意しなければならないのは、種壷なら何でもよいというわけではない、ということだ。

備前焼は、極めて原始的な土器である。粘土で成形し、それを窯に詰めて焼く。その際、火の当たり具合によって赤く、黒く、あるいは青く焼きあがる。一つの器のある部分は赤く、ある部分は青く焼きあがることもある。さらに、燃料の薪が燃え、その灰が器の表面に付着することもある。灰は高温で溶けてガラス質となり、釉薬のように器の表面に付着する。さらに、器を窯に詰める際、例えば複数の皿を重ねて入れることがある。重ねない場合にも、多くの器を詰め込むため、隣の器と密接させて置く。このような場合に、お互いが引っ付かないように隣や上の器との間に藁を入れる。その藁が、赤い線状の文様となって器表面に現れることもある。

備前焼
備前焼

こうして、備前焼の器には、表面に多様な文様が現れることになる。もちろんそれは、製造上の理由でできたもので、機能とは一切関係ない。つまり、意図せぬものであり、当然のごとく、それは一つ一つまったく違う。それらの中には、偶然にも茶道具の水指に適した大きさと形になっており、それが偶然にも美しく発色し、さらに偶然にも面白い文様が現れたものが、極めて低い確率で生まれる。それを注意深く選び出して取り上げ、茶道具として使うのである。

茶道の隆盛によって、こうした侘びた味わいを人為的に生み出す試みが盛んになっていく。茶人などが形や大きさ、焼き加減などを指定し、窯元に製作を依頼するのである。こうして桃山時代には、最初から茶道具として製作される器が急速に増え、新たな技法も次々に生まれていった。元々窯業が産業として確立していた地方はもちろん、新たな窯業の拠点も生まれた。萩、高取など、大名の支援によって新たな産地が生まれる一方、文化の中心地である京都でも窯業が盛んになっていく。

京都で作られたという意味では、最も有名なのが16世紀に生まれた楽焼であろう。不世出の茶人である千利休と瓦焼職人だったとも言われる長次郎が、共同作業で生み出したのが楽焼である。ろくろを使わず、手びねりで成形する。文様はなく、全体は黒、あるいはくすんだ赤色一色である。極限まで装飾を廃し、ただただお茶の色を引き立てるだけに存在するかのような器である。それは茶を喫むという機能を実現する器でありながら、同時に侘び寂びの精神を体現するものといえるだろう。

その後、茶道の隆盛を背景に楽焼以外にも、さまざまな陶器が京都で作られ始める。そのことは、多くの文化人、芸術家、そして商人が京都に住んでおり、さらにそこが最大の需要地でもあったということと無縁ではない。資本があり、優れた作り手がおり、有力な購買者がいれば、そこに産業が生まれるのは自然な成り行きといえるだろう。やがて京都は、独自の作風を創出しながら、窯業の地としての隆盛を極めていく。

今日、京都の陶磁器、すなわち京焼の作風として、多くの人に知られているのは色絵の陶器であろう。陶器の表面に、金銀や様々な色を使って文様を描いたものである。17世紀に現れ、この作風を大成させたのが京焼史上最大の巨匠ともいえる野々村仁清であり、彼を指導したといわれるのが著名な茶人である金森宗和である。洗練されたデザインの器に、優美かつ華やかな文様を施す。それでいて陶器の暖かさを失わない。こうした見事な作品を多く残し、京焼の方向性を決定づけた。

さらに、もう一人の巨匠、乾山によって京焼は、新しい色絵の様式を加える。乾山は、一見稚拙ともみえる、おおらかな器に、稚拙とも思える筆使いで大胆な文様を施した。そのおおらかさと大胆さが、見るものに鮮烈な印象と不思議な安心感を与えるのだ。

これら色絵陶器の作風は、仁清風、乾山風と呼ばれ、京焼の特徴的な作風として、今日に至るまで受け継がれている。ただ、京焼全体からすれば、それは一面にしかすぎない。京焼の使命は、需要地にあって、古今東西の卓越した陶磁器に代替する道具を生み出すことにあった。そのために、盛んに行われたのが「写」ということである。過去に朝鮮半島で焼かれた貴重な陶器、東南アジア産のそれ、さらには国内で作製された名器を「写す」のである。ここでいう「写す」という言葉は、オリジナルとそっくりの複製を作ることのみを指すのではない。むしろ完全な複製品の製作することはごくまれで、多くの場合は、偶然に生まれたさまざまな美的要素を抽出してつぎ込み、過去の名作の雰囲気をそのままに、新たな作品を生み出すことなのである。

このために、京焼はさまざまな技法を身につけていった。産地ごとに現れる作風、特徴を自由自在に再現できるようにしたのである。それを、手に入る材料で実現する。例えば、唐津風の陶器を作製するために、近郊で採れる粘土を巧妙にブレンドし、唐津焼風の土味を再現するのだ。こうした作品は、唐津で作製された唐津と区別する意味で京唐津などと呼ばれる。同様に、斗々屋(唐物茶碗の一種)風の京斗々屋、デルフト焼風の京オランダなどが存在する。

京斗々屋
京斗々屋

こうして技術を蓄積してきた京焼が、その名を世界に轟かせるときがきた。日本の歴史でいう江戸時代は、鎖国の時代であった。オランダなどごく一部の国を除き、まったく交流は絶え、貿易は許されなかった。それが明治になって解け、海外に日本の産品が紹介されるようになったのである。蒔絵などと並び、陶器は欧州で高い評価を受けた。薩摩焼はその代表だが、実は「サツマ」と呼ばれる陶器群の一部は京都で製作されたものである。世にそれを京薩摩と呼ぶ。

傑出した作家も現れた。その代表例が、宮川香山であろう。彼の工房で作られた「MAKUZU WARE」は、極めて高い品質と芸術性を兼ね備え、欧州のコレクターたちの垂涎の的となった。

宮川香山は横浜に工房を構えていたが、そもそもは京都の陶芸家である。父には、幕末期の京焼界にあって傑出した名手として知られた宮川長造がいる。京焼のあらゆる技法を習得し、茶道具を中心に優美で味わい深い作品を多く残した。彼は真葛の号を用い、作品には「真葛」の印を用いた。これにちなみ、真葛長造とも呼ばれ、彼と彼の工房の作品は真葛焼と呼ばれる。

真葛焼・宮川家系図
真葛焼・宮川家系図
長造作 雨夜の茶碗
長造作 雨夜の茶碗

長造の没後、その業を継承したのが宮川香山である。長造同様、真葛香山とも呼ばれる。彼が工房を継承してすぐ、長く鎖国政策を続けてきた江戸幕府は崩壊し、明治時代となった。旧体制の権力者は一掃され、制度は崩れ、首都は京都から東京に移った。これに伴い、多くの芸術家や工芸家などが、その庇護を失った。こうした激動期にあって香山は、工房を京都から、国内最大の貿易港がある横浜に移すことを決心する。国内だけでなく海外にも活路を求めた結果だった。

その後の活躍は目覚しい。国内の博覧会はもちろん、パリ万博、シドニー万博、フィラデルフィア万博、セントルイス万博などに高度な技術を駆使した作品を出し、数多くの賞を受けた。コレクターたちは真葛焼に熱狂し、ジャポニスム(日本趣味・日本心酔のこと。一時的な流行ではなく、当時の全ての先進国で30年以上も続いた運動であった)のうねりに乗って一つのブームを形成していく。

香山の作品を振り返ってみれば、輸出用に製作されたであろう作品と、国内需要家用に作られた作品では、作風に大きな差が認められる。一口にいえば、装飾性と技術力を前面に押し出したものが輸出用で、それを十分に抑制したものが国内向けといえるだろうか。ただそのいずれもが、高い創作力と意匠力、高度な技術に裏付けられたものであることに変わりはない。

こうして、海外、そして国内でも名声を高めていった真葛焼は、横浜の地で初代香山、二代香山、三代香山の三代に渡って作風と技術を継承し、隆盛を保った。しかし、思わぬ事故によって、この工房は突然の終焉を迎える。第二次世界大戦時、横浜は、しばしば米軍の空襲を受けた。それから身を守るために、空襲の警報を受け陶磁器焼成用の大型の窯に逃げ込んだ宮川香山とその一族、工房の従業員たちが、空襲による窯の破壊によって埋まり、ことごとく死亡してしまったのである。昭和20年のことである。

こうして、横浜での真葛焼の歴史は途絶えたが、幸いなことに、別流が京都で盛業を続けていた。宮川香斎家である。宮川香山の横浜真葛焼に対し、京都真葛焼とも呼ぶ。同じ姓であることから分かるように、宮川長造と宮川香斎とは同じ先祖をもつ一族であったが、同じ京都でも別々に工房を構えていた。ただ、同族だけに交流も深かったようで、初代香斎の嗣子は、修行時代に長造の窯で一時期を過ごしたという。

宮川長造の陰に隠れた感はあるが、幕末期に活躍した初代の宮川香斎もまた、確かに名工であったと言っていいだろう。その証拠に、当時、公家衆などから大いに愛顧を受けていたことが記録に残っている。祥瑞(オリジナルは日本からの注文によって17世紀に中国の景徳鎮で製作された磁器、染付技法で独特の文様を精緻な筆づかいで描く)などの作品を得意としたようで、現在残されている作品をみても、力強さのなかに独特の雅味を感じさせる、極めて高水準のものである。

その、京都の宮川香斎家は、昭和初期のころから、横浜の宮川香山家の兄弟的な存在とみなされ、「真葛焼」と称されるようになっていった。それを後押ししたのが、京都を本拠とする茶道の宗匠たちである。明治に入り停滞を続けていた茶道も、そのころになり再び隆盛に向かいつつあった。そのうねりの中にあって、輸出品に比重を置かず、茶道にかなった純日本風の作品を製作し続ける宮川香斎家を、何とか後援しようとの機運が盛り上がっていったのかもしれない。そもそも、真葛の名は真葛原という京都の地名に由来する。やはり、真葛焼が京都になくては、との思もあったことだろう。

そのわずか後、横浜の真葛焼は消滅する。京都真葛焼から京都がとれ、宮川香斎家が唯一、その系譜を伝える窯元となったのである。生み出す作品は、長造の流れを踏まえた茶道具が中心である。長造が得意とした仁清風、乾山風の色絵、祥瑞などを多く手がけ、茶陶の世界で重きをなす。当代は平成14年に六代目香斎を継承した。これまでの作風に横浜真葛焼風の味わいを加え、独自の境地を拓きつつある。最近では、南蛮風、唐津風、高麗風などの作品にも挑む。それらはかつて、長造をはじめとする京焼の先達たちが得意とし、京焼の重要品目であったもの。だが、いまではほとんど手がける作家がいなくなってしまった。

当代 宮川香斎
当代 宮川香斎
長造作 雨夜の茶碗
長造作 雨夜の茶碗

その、古くて新しい京焼が、いま蘇ろうとしている。

(2011年12月、文・仲森 智博)
真葛窯
真葛窯
〒605-0873 京都市東山区下馬町484
TEL 075-561-4373
http://www.makuzu-yaki.jp/